はずれたルーティン

    毎日、毎週、毎月、毎年やっていることを考えた。
    美容系インフルエンサーのスキンケア動画を見ていたとき、自分にもルーティンというものがあるのかな?と疑問を持ったことがきっかけ。

    ようやく自身の「暮らし」に目を向けられるようになった実感はあっても、元来面倒くさがりなのに完璧主義、そしてそれが崩れるくらいならやりたがらないところがあるから、ルーティンとは縁遠いと自覚していた。

    それでも、歯みがきや風呂に入る前の体重測定、風呂上がりに改めてする水洗顔、そこから化粧水と乳液で全身を包むこと、チョコレートを買いに行くこと、グミを買いに行くこと、複数の友人と頃合いをみて定期的に電話することなどは、ルーティン化していると言えるかもしれないな、と思った。

    そして同時に、そのルーティンからはずれたもののことを想った。
    毎月買っていたのに買わなくなった音楽雑誌、ファッション雑誌、毎巻買っていたのについには最終回まで興味が持続しなかった漫画、販売が終了したお菓子、遠くに離れた友人たち、電話しなくなった友人たち。毎日あいさつを欠かさなかった昔の恋人たち。

    年をとるにつれて、身の回りから削いでいったものへの愛憎が薄くなっていく。
    あんなに隅から隅まで、注釈までしっかりと読んでいた音楽雑誌は、大学受験のときに読むのをやめたはずだ。はじめて買った号の表紙は平井堅で、LIFE is…のアルバムの特集だった。大学進学の際にほとんど処分し、家を建て替えたタイミングで残りも捨てた。
    ファッション雑誌を買っていたのは高校、大学のときで、間違いなくいまより服が好きだった。あの頃のメンノンとポパイの紙の感触をいまでも覚えているのに、最近では無印の服ばかり着ている。

    今日、秋の気配を肌に感じながら、夕暮れの道を歩いた。


    5年前、そういう景色を見ながらよく電話しながら歩いたっけと思った。
    そのときよく電話していたひととは、もう何年も話していない。連絡すらとらないし、SNSで繋がっていてもお互いミュートしているだろうから、リアクションもこなければ、相手のIDすらも覚えていない。
    あのとき僕はとても傷ついた。
    しかし自慢だった記憶力も、生きるために動く脳みその仕組みからは逃れられず、一体なぜ僕があんなに傷ついたのか、思い出させてはくれない。

    思い出して、新鮮に傷つこうと思ったけれど、きっともうどうでもいいんだ。

    昔はよく、何もかもを思い出して臓器を燃やすほど怒り、傷ついていた。
    でもそんなルーティンも、いまではほとんど自分残っていない。

    忘れること、離れること、消すこと、そういう類の才能が開花したのか、鈍感になったのか。きっと後者だろうが、三〇をすぎて、ようやく生きやすくなった。
    色々なものを手放し、少しの身軽さを手に入れたのかもしれない。

    お気に入りの音楽を聴きながら、夕暮れの道を歩きながら、そんなことを考えながら、すうと息を吸い込んだら、やはり秋の気配のする空気が、ぬるく肺を満たした。
    身軽だけど、やっぱり離れていったひとたちを思うと、ほんの少しだけ寂しい。

    まだ。

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