「本2冊と、わたしは可愛いと思っているけれどmudaくんは絶対に要らんやろうな、と思うであろうものを贈ります」
そう言って誕生日プレゼントをAmazonで注文したのは火曜日のことで、予定通りであれば誕生日までに届くはずだったそれは、見事に遅延を繰り返して問い合わせるまで発送されることはなかった。焦ったわたしは「水曜日には届くはずになっているんだけど……」とスクショをmudaくんに送ってしまい、世界で一番不要なサプライズも不発に終わった。
わたしはプレゼント選びが下手な自負がある。
その理由は元来の性質が”おそろしくケチ”であった、ということだという自覚もある。
だからこそ、あまり他人にプレゼントを贈ってこない人生であったし、逆に三〇を過ぎるまでプレゼントをもらうことも少なかった。最近は、ケチ人生もゆるやかな変化を迎えて、別に大喜びされなくても良いかな、というくらいのテンションでものを贈ったりもするし、色々なものをいただくようになった。ありがたいことですね。
逆に、それまでの人生におけるプレゼントの思い出は自分にとって少しだけ苦い味のするものが多い。
例えば二〇を少しすぎたころにいただいたムーミンパパのマグと陶器人形は、わたしが「誕生日が近い友人」のパーティーに呼ばれて、自分も数日違いなのに、と子どもじみた考えで拗ねていたとを見かねた友人が贈ってくれたものである。
記憶を掘り返せばあらゆる年齢において、なんか、そういう、自分の強欲さや嫉妬心が身に突き刺さるような出来事にぶち当たって辛くなるが、そのたびにわたしを”ゆるしてくれた”友人たちへの感謝の気持ちが湧いてくるのは良いことだと思っている。
わたしがいまだに「真似できない」と思っているのは、遠くに引っ越すことになった十歳上の友人が、唐突にプレミアのついたCDを渡してくれたこと。
当時、ミュージカルと坂本真綾の話をよくしていたのを覚えてくださっていて、坂本真綾が出演していた「レ・ミゼラブル」のサウンド・トラックを最後の夜に渡されたのだった。
当時も十分値上がりしていたのを知っていたから、そのあまりの身軽な行動に驚いたのだった。
いまわたしの部屋にもプレミアのついたCDがいくつかあるのだが、それを年下のそれほど関係が深くない友人に簡単に渡せるものだろうか。
自信がない。
それでも、断捨離やミニマリストの動画を未漁った結果それに影響されつつあるいまの自分には、その身軽さを手にいれる機会は意外と近くにあるかもしれないと考えている。
誰かがいつの日か、どうでもいいタイミングで思い出せるプレゼント。
もう少し経験を積んだら、わたしも誰かにそういうものを贈れるようになりたい。
そのときは、胸いっぱい喜んでもらえるとこちらも嬉しい。
ちなみにわたしがmudaくんに贈ったものは、シルバニア・ファミリーの「冷蔵庫」。